「私は○○人です」を考える
私は生まれは九州、福岡県行橋市で幼少を過ごし、小学校3年生からは大阪府茨木市で育った。いろいろ家庭の事情もあり、実家が名古屋に移り、1年間名古屋で過ごして、今は大阪市内に住んでいる。世の中には小さいころから転々と住む場所が変わっている人も多いと思う。自分が何人でなるのかということを考えてみた。 私は「九州人」なのか?
こんな言い方をするのもなんだが、私は九州にあまりいい思い出がない。子供時分にいた友達とも連絡を交わしたことはないし、交わすほど友達もいなかったと思う。もちろん仲のいい友達はいました。私の「九州人」としてのアイデンティティは非常に少ないと言ってもいい。だけど、住んでいた場所や思い出は今も明確に残っている。地図も細かく書くことができるだろう。
では「大阪人」なのか。
胸を張って「私は大阪人だ」とも言えない。やはり、「○○人」というからにはその土地で生まれ育った人のことを言うのではないかと思う。私の言動は「大阪人」基「関西人」のそれではあるが、自分を「大阪人」と100%確信したことはない。ただ大阪でできた友達とは今でも酒を飲んで冗談を言える関係だし、いろんな面でつながりもある。「どこが地元?」と聞かれれば、少し悩むがやはり「茨木」と答えてしまうだろう。それだけそこでの出会いは重要なものである。
名古屋に関してはまったくといっていいほど、そのアイデンティティはない。両親の生まれ育った地であり、私はいつも訪れるだけだった。実家に帰ればほっとするが、友達がまったくいないので、どうにもこうにも自分が地元に帰ってきたという感覚がない。そこが少し寂しいのだ。
大体何人かを考えてる時点でおかしいと思うのだが、そういったものさしは最低限国レベルで考えればいいかなと思う。決してこれは差別とかではない。少なくても私は日本人としての自覚もアイデンティティも持っていると思うからだ。