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数学にある美しさと不思議

投稿日:2009.11.23 / カテゴリ:その他 / 投稿者:Tom Goodsun

私は数学が苦手だ。中学のときも数学の点数はダントツに悪かった。高校は2年次から科目が選択できる選択制の普通科だったので、週に英語系科目10時間というかなりの文系学生(とは言っても本を読んだりすることも苦手)だったと思う。

その私が数学について語ってみる。

今になって思う。数学は苦手だが、数学にある不思議はとても面白いと思うし、その成り立ちは美しいと思う。おそらく数学が嫌いだ、苦手だという要因は数学という学問が1つの答えを導くために、こうでなければならないという普遍性と、単純にそれによって押し込まれる受験のための学問になっているからではないだろうか。

よくシステムエンジニアは数学に強くないとなれないというが、私は数学嫌いでプログラマなんてしてる。確かに、私のやってる分野は、業務などの数字をいっぱい扱うプログラマとは一線を画しているし、数学ができない自分がプログラマをできている理由もなんとなくわかっている。

システムエンジニア=数学ができる人とは、証明に強い人ということと世間ではなっているらしい。インドにはそういう人が多いらしいが、そもそも証明も学校で教わるあのスタイルにこだわる必要があるのだろうか? 私はかつて図形の証明を、教科書の図形を等倍で実際に書いて、誤差1ミリで結果を導き出したことがあったが、特に図形なんかは、文字にするより、図形で実演したほうが万人にわかりやすい。あの証明はわかる人にしかわからない証明だ。

そして証明の場合、その過程よりも「結局のところどうなの?」というところに行き着く。個人的な意見だが、証明の過程は、証明の価値よりも手法的な価値、何かをするときの工夫としての価値のほうが高いと思う。証明の価値は結果でしかないと思う。

そう思うのは「フェルマーの最終定理」というものがあったからだ。昔、私が中学生ぐらいのころ、水曜日(だったかな)夕方6時半ぐらいから「地球少女アルジュナ」というアニメがやってた。環境問題などを取り扱ったアニメで、世間的にあまりパッとしてないのが寂しいのだが、その第6話に「フェルマーの最終定理」が出てくる。「シンプルで力強い。350年間数学者を虜にした。それはこの数式が美しいから。」と数学を熱く語るシーンがある。結局この定理は1996年にアンドリュー・ワイルズという学者が証明した。

わたしはこの「証明した」を知ったとき(専門学生だったときかな)、てっきり成り立たないことが証明されたのだと思った。だって証明って、すべて成り立つことが証明ではないはずだ。最近知ったのだが、これは成り立つことが証明されていたのだ。これにはいろいろな理論を組み合わせて、証明をなり立たせているらしい。だけど私は言いたい。フェルマーの最終定理、実際のところどんな数字が、x、y、z、nに入るのか。つまりそれが証明・・・だとは思うのだが、おそらくとんでもなく果てしない数字が入るので、単純な式にならないのだと思うのだが。

ちなみにフェルマーの最終定理の式は、英語ではx to the n power plus y to the n power equal z to the n powerという。こんな言い方を習わないのも現代教育のよくない点である。

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